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月の輪神事の起源

起源は「出雲風土記」意宇(おう)郡安来郷の条 に記されている毘売崎(ひめさき)伝承で、これによる風習が「月の輪神事」と称されたとか…。



まずは、↓の出雲風土記を御一読ください(^^)

出雲風土記より

飛鳥淨御原宮御宇天皇御代甲戌七月十三日。語臣猪麻呂之女遥件埼邂逅遇和爾所賊不切。爾時父猪麻呂所賊女子斂毘賣埼上。大發聲憤。號天踊地。行吟居嘆。晝夜辛苦無避」七丁オ斂所。作是之間經歴數日。然後興慷慨志。

麻呂箭鋭鋒撰便處居即★[手+壹]訴云天神千五百萬。地祇千五百萬。並當國靜坐三百九十九社及海若等。大神之和魂者靜而荒魂者皆悉依給猪麻呂之所与。良有神靈坐者吾所傷助給。以此知神靈之所神者。

爾時有須臾而和爾百餘靜圍繞一和爾徐率來從於居下。不進不退。猶圍繞」七丁ウ耳。爾時擧鉾而刃中央一和爾殺捕。已訖然後百餘和爾解散。

殺割者女子之一脛屠出。仍和爾者殺割而挂串立路之垂也。



意訳

天武天皇三年(674年)七月十三日、語臣猪麻呂(かたりのおみいまろ)の娘が毘売崎(ひめさき)に遊びにでると、たまたま和邇(わに←鮫のことです)に遭い、殺されてしまった。父・猪麻呂は死んだ娘を岬に葬り、大声にいきどおり、天に号び地に踊り、行きては泣き居ては嘆き、昼夜哀しみ苦しんで墓のそばから離れては行けなかった。

それから猪麻呂は深く怒って箭(や)を磨き鋒(ほこ)を鋭(と)くし、天の神千五百万(ちいほよろず)、地の神千五百万、ならびに当国出雲の神々三百九十九、海の神々に拝み、娘のあだを討たせ給えと祈りつづけた。

やがて百あまりの和邇が静かに一匹の仲間を囲んで浜辺に近づき猪麻呂の前にきてじっと動かなくなった。猪麻呂は歩みよって鋒を挙げ、仲間に囲まれた和邇を殺した。和邇たちは音もなく四方に散って姿を海の底に隠した。

猪麻呂が死んだ和邇の腹を割くと女の子の片脚が現われた。猪麻呂は和邇を五つ八つに割き、串に掛けて路傍にさらした。

毘売塚(ひめつか)古墳

安来駅の裏に錦山焼窯元がありますが、そこと隣接するのが毘売塚古墳です。そこを登っていきますと頂上に毘売塚と書いた石碑があります。

猪麻呂の娘はここ毘売塚古墳に埋葬されているという話です。
そして、その毘売塚古墳の上からは安来の港が一望できます(^^)
ここから港での四重連の場所も見れますので、ここに埋葬されてる魂も毎年見てるんでしょうかね!?

安来市民でも行った事がある人も少ないと思いますので、これを機会に是非訪れてみてはいかがでしょうかo(^▽^)oその時は、落ち葉の1つでも良いので持って帰って頂いて景観美化に御協力お願い致します。
※画像をクリックすると大きな画像が見れます

月の輪神事の変遷

和邇を退治した後、村人達は娘の霊を慰めるため、和邇を殺した鉾型の武器「月の輪」※1を作り、毎年8月14日から4日間、昼夜を問わず毘売塚山の麓、浜垣という所で集い、かがり火を焚いて飲食をし歌舞音曲を奏して慰霊祭が行われていたそうです。

元禄十二年(1699)頃からは、乗相院別当が大念仏と称して華麗な行列をつくり、大々的に神事として町を練り歩くようになったそうです。その行列の御神体が月の輪の形をした燈籠だったとか…。

それからどれくらいの変遷があったのかは定かではありませんが、後に、新町の鉾を乗せた山車を先頭に、西御幸の大幣(当時はまだ山車には乗っておらず、1人の手で持ち上げ交代しながら歩いていた)、月の輪(三日月)の形をした提灯の行列、薄黄色の4本織、そして大市場の赤幣の山車と続いていました。

昭和49年、西御幸が山車を新調、大幣を山車に乗せての参加になりました。

そして昭和50年、八幡町が加わり今の形が出来上がりました。


※1 これが元になり月の輪神事になったという説もありますが、もう1つ、和邇を串刺しにした姿が月の輪(三日月)に見えたので、という説もあります(;^_^A

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